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ドラフト外入団について

  

ドラフト制度が導入された後も、ドラフトで選ばれなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。初期のドラフト会議では、指名して交渉権を得ても入団を拒否されることも多く、その穴埋めとしてドラフト外入団という制度が必要だったのである。

さらに、1974年から1990年にはドラフト会議で指名できる選手が1球団6名まで、特に1978年から1980年は1球団4名までと制限されていた。このため、ドラフト外入団は戦力を補充する重要な手段とみなされ、多くの選手がこの制度を使って入団した。この中には、無名だったが入団テストで実力を認められて採用された選手も多かった。

しかしこの制度は同時にプロ野球を志望していなかったためにドラフトで指名されなかった選手をドラフト会議終了後に有利な契約内容で説得してドラフト外入団させたり、事前に有利な契約内容を提示して球団職員或いは練習生として囲い込みドラフト会議後にドラフト外で契約するなど、ドラフト制度の抜け穴にもなった。

それらの悪用がドラフト制度の目的である契約金の抑制や戦力均衡の弊害になると判断され、1991年にドラフト外入団は練習生制度とともに廃止された。ドラフト外入団を廃止するにあたって、ドラフト会議では1球団10名まで指名できるようになり、この制度の目的の1つであった不足した戦力の補充はドラフト下位で実現されることになった。また練習生という概念は後に育成選手制度として再整備されることとなる。

ドラフト外で入団した選手の中には、西本聖(1974年、東京読売)、大野豊(1976年、広島東洋)、松永浩美(1978年、阪急)、鹿取義隆(1978年、東京読売)、秋山幸二(1980年、西武)、石井忠徳(現 石井琢朗)(1988年、横浜大洋)など、プロ野球で実績を残した選手も多く存在する。

Wikipediaより出典 - Article - History - License: GFDL

  

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